漁師仲間を導く、町をつなぐ商品開発 長年牡蠣の養殖を続けてきた漁師が開発した人気商品があります。その開発と再起には一人のコーディネーターと生産者との年齢や性別を超えた信頼関係がありました。背中を押されているうちに見いだした、地域への思いを伺います。

コーディネーターに気付かされた町の個性

コーディネーターに気付かされた町の個性 山田湾でとれた大粒の牡蠣の燻製をオリーブオイル漬けにした「山田の牡蠣くん」。牡蠣漁と平行し加工品を手掛ける佐々木俊之さんが考案した自信作です。震災前、この商品名に悩んでいた時に紹介されたのが商品開発コーディネーターの五日市知香さんでした。
商品名に「山田の」と入れようと提案したのは五日市さんでした。渋る佐々木さんに対し、商品を通して山田の牡蠣が注目されるには地域名を入れるべきだと力説したそうです。「今思えば自分の住む町の良さに気づいていなかったんです。町は好きだけれど、宣伝するほどいい町だとも思っていなくて」と、佐々木さんは振り返ります。「山田の牡蠣くん」の成功を機に弾みをつけた2人は、自家での消費が大半だった赤ざら貝で新しい商品を生み出します。牡蠣くんに続く「山田のあかちゃん」という命名は、やはり佐々木さんにとっては「ぎょっとするほど想定外だった」と笑います。

本当は言われるのを待っていた「やりましょう」

本当は言われるのを待っていた「やりましょう」 「山田の牡蠣くん」「山田のあかちゃん」が軌道に乗り、さあこれからだという時の震災。加工場のリニューアルも終わり、地元の人を雇って地域に貢献しようと話していた矢先のことでした。借金だけが残り、辞めようとも思ったそうです。
「あの状況で『もういちど』なんて私からは言えなかった」と五日市さんは振り返ります。しかし、3回目に物資を届けに訪れた時、佐々木さんの口から漏れた「もっかいやろうかな…」という声を聞き逃しませんでした。途端に「やりましょう!! 全面的にバックアップします」と言った五日市さんは、加工場も材料もない中で販売開始をアテもなく6月1日と決めます。
「先を見て欲しかったんです。必要な事だけを考えてほしいと思いました」。 震災からまだ1カ月。「まだ決まらない心を決めてくれて、なかなか踏み出せなかった一歩を踏み出せたのは、外から来たパートナーのおかげでした」。

山田町を名乗る商品でこの町を灯す光に

山田町を名乗る商品でこの町を灯す光に 佐々木さんは五日市さんの第一印象を「生意気だと思った」といいます。「美人でハキハキしているけれど、言う事が厳しくて」。しかしお手並み拝見とまでにトータルデザインを任せた「山田の牡蠣くん」の人気は上がり、姉妹商品として開発した赤ざら貝への着眼も斬新。味のムラを鋭く指摘し「ピっと怒られる」うちに、性別や年齢、職種を超えたパートナーとして欠かせない存在となっていきました。「感謝してますよ」「初めて聞きましたよ」と笑い合う姿が微笑ましくも見えます。震災後、山田町を離れ内陸の工場で再起した佐々木さんでしたが、2013年秋には山田町の仮設工場に戻ります。山田町に帰るまで2年半、「山田」を名乗る商品をもう一度山田町で作れる念願を叶えた歓びは大きかったと言います。

佐々木さんと五日市さんは、一昨年にも岩手県北の大西ファームとの共同開発で、増産する程のヒット商品を生み出しました。今年2月にはしうり(ムール)貝の姉妹商品が完成。今後は、五日市さんと交流のある石垣島とも連携したいと視野を広げています。「全部流されたアイツでも頑張っているなら、という光になりたいんです。県内外の異素材と繋がる事で町を発信し、それが数年後の漁師を変える機会になったらいいな」。
漁師たちの表情も変わったそうです。「あかちゃん持って来たよ」とにこにこ顔で訪れる漁師を見ると、やって良かったなと思うそうです。「漁師の父ちゃんはこれで晩酌できると、母ちゃんは夕飯の総菜が増えると喜んでくれます。いつか仲間の船が次々と沖へと出て行く、そんな活気ある山田湾を見たいですね」。

佐々木俊之さん

PROFILE

(株)山田の牡蠣くん代表取締役

佐々木俊之さん

岩手県山田町生まれ。20代前半で家業の漁業を継ぎ、以来牡蠣やホタテの養殖に従事しながら、五日市知香さん((株)パイロットフィッシュ代表取締役)とともに加工品の新商品開発に取り組む。

女性社長が挑む「女性が支える水産業」 父親が遺した水産会社を女手ひとつで守る社長がいます。佐々木千鶴子さんは加工品で活路を見いだそうと新しい商品誕生を控えていた矢先に震災でゼロからの挑戦を余儀無くされました。再起した彼女が走り続ける理由とその先にある水産業の姿を伺いました。

亡き父が守った工場で見つけた希望のレシピ

亡き父が守った工場で見つけた希望のレシピ まるき水産の建物は防波堤よりも湾側にあります。てっきりもう流されたものと諦めていたそうですが、町をのみ込んだ津波が何度もぶつかる位置にありながら、奇跡的に建物は流されていませんでした。あるべきものがないその光景の先に、見覚えのある白い建物だけが見えたそうです。がれきを踏みこえ、数日かけて外壁にたどり着いた時、佐々木さんは10年前に亡くなった父の存在を感じたそうです。「父が守ったに違いないと思いました」。建物の中を片付けていくと、震災当日まで考えていた加工品のレシピ、やっと取得した許認可証の切れ端、愛用の包丁、思い入れのあるものがひとつずつ見つかっていきました。「今すぐに再起しようとは考えられなかったけれど、不思議とここから始められると、そんな気がしました」

漁師と消費者をつなぐ加工品で切り拓く未来

漁師と消費者をつなぐ加工品で切り拓く未来 完成間近で被災したホタテの貝ひもを利用した「漁師の生ふりかけ」。卸売から加工への新規参入ということもあり、その開発再開はゼロからの挑戦とも言えました。販路を見つける為に、先輩業者に教えてもらいながら自ら商談にも駆け巡りました。「自分が加工や販売に携わることによって、漁師と消費者の間に入り、6次化を手助けする役目を果たしたいんです。いろいろありますが、嫌な事でも振り切って走らないと道は開かないんです」と佐々木さんは力を込めます。ワカメ、ホタテ、牡蠣と、徐々に山田湾で水揚げできるものが増えていくと、自分の元で出来る加工品の幅も広がっていったと目を細める佐々木さん。ホタテやめかぶを生のまま詰めた「まるきのめかぶ丼」もそのひとつです。

強く柔軟に逆境を跳ね返す女性のパワー

強く柔軟に逆境を跳ね返す女性のパワー 水産という業界で女性がリードする会社は珍しいと言えます。しかし水揚げされた原材料を冷たい水と戦いながら長時間立ちっぱなしで作業するのは地元の女性です。この町の水産業を支えているのは女性だという自負もあります。だからこそ、女性にはこの仕事や自分が作るものにプライドと責任をもってもらえる労働環境を整えてあげたいと佐々木さんは考えています。「女性ならではの細やかさは商品のパッケージやディスプレイで差別化する武器になります。愛情を込めた商品を世に出したいという強い母心も逆境をチャンスに変える力になる。それに女の人が頑張れば、男の人だって頑張るでしょう」。そう語る佐々木さんの視線の先にあるのは山田町の未来の水産業の姿です。

「2020年の東京オリンピック、岩手でも何かやるといいね」、と友人と話すことがあるそうです。「確かにせっかく世界から注目されるし、三陸でも人をウェルカムする体制を作りたいかな」と佐々木さんは笑います。しかし不安もよぎります。オリンピックの準備が始まったらそれまで町に入ってくれていた工事関係者はどこにいってしまうのでしょう。「ずっと誰かが想い支えてくれるわけではないのです。待つだけではこの町は無くなってしまいます。この会社もそう。町内の人を対象にした商品では限りがあるから、外にアピールしていく力を付けてその時を迎えたいですね。自分で歩くしかないんです」と、遠く力強いまなざしで父の遺した工場を見上げます。

佐々木千鶴子さん

PROFILE

有限会社まるき水産代表取締役

佐々木千鶴子さん

三陸産のホタテ、カキなど海産物の卸売業に加え、水産物の調理加工した商品開発を開始。パッケージデザインやレシピ提案など女性らしい視点で商品を展開することで生産者と消費者を繋ぎながら山田町の水産業の復活を目指す。

復興デパートメント岩手県 まるき水産おすすめの商品

三陸めかぶ丼セット
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三陸 豪華海鮮丼セット
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ツーリズムでつながる町に上がる狼煙 うどん店を営む父とシーカヤックインストラクターの息子、そしてひとりの牡蠣漁師が挑む「町つなぎ」。互いが互いの背中を押しながら、住民を巻き込むひとつのチームとして山田町に新しい繫がりを生もうとしています。

背中を押されて踏み出した牡蠣漁師の第一歩

背中を押されて踏み出した牡蠣漁師の第一歩 牡蠣漁師の中村敏彦さんは震災前から苦しい漁業の現状に頭を抱えていました。漁師同士で研究会を開くなどしてみたものの、収入は思うように伸びず、追い打ちをかけるように海の状況も悪くなり、精神的にも追い込まれていたといいます。
震災後も漁業をなんとかしたいという気持ちは変わりませんでした。「やるしかないと思いました。色々な人に助けられたから、自分の商売だけが成功するのではなくて色々な人と組んで発信していきたいと思いました」。しかし声をかけても一緒にやろうと乗ってきてくれる人は見つかりません。そんな時再会したのがうどん店を営む川村芳宏さんでした。「一緒にやっから」と基金に申込む為の書類書きから企画立てまで協力してくれたそうです。「踏み出せたのは川村さんのおかげです」。

父と息子それぞれのツールで挑むまちの発信

父と息子それぞれのツールで挑むまちの発信 川村さんは町内で23歳の時から30年近くうどん店を営んでいます。粉から器に至るまで岩手県産にこだわる店内には、閉店時間までお客さんが詰めかけます。「地元の生産者と繋がることで発信したい」と、中村さんとは店内の一部を牡蠣小屋にしたり加工品を開発するなど、新しい販売システムづくりに向けて動き出しています。
息子の将崇さんは、父親のうどん店を手伝いながら、シーカヤックで山田湾の魅力を伝えようと新事業を立ち上げました。「小さい頃海で魚を捕ったり、山を自転車で駆け下りては転んだり、そういう慣れ親しんだ場所の魅力に大人になってから気付いたんです」。山田町には一般道からは見えず、海からしかアプローチ出来ない青い海と白砂のビーチがあるのだそう。将崇さんは知られていないだけで素敵な所がこの町にあることを、シーカヤックというひとつのツールを使って伝えて行きたいと語ります。「気持ちは親父と同じです」。

チームワークから生まれる人がつながるツーリズム

チームワークから生まれる人がつながるツーリズム 中村さんと将崇さんは、環境省の復興エコツーリズム推進モデル事業にも参加。その中で住民有志が企画したモニターツアーのガイドも勤めました。中村さんの漁船で養殖現場など山田湾をクルーズし、牡蠣を剥いて食べるというツアーには、募集定員いっぱいの人が参加。中村さんは牡蠣を作るのにこんなに手間がかかるのかと感心してもらえたことが嬉しかったと言います。「山田に来たらまずは人に会って欲しい」と語るのは父親の川村さん。「箱ものを作っても次に続きません。シーカヤックは将崇、牡蠣は中村さん、うどんはウチ。この人に会いたいという人の繫がりを築いていきたいです。街全体を考えた広い視野が必要だと思います」。そういう意味で昨年発足したやまだ復興応援隊のように外部と地元の人をつなぎコーディネートする人の存在は支えになっていると、3人は口を揃えます。「もうチームですよね。ひとつのチームでひとつの事やるのって楽しいですよ」。と中村さんは笑います。

不安に押し潰されそうになりながらも、夢は広がっています。3年後には中村さんのところで種苗したホヤが出荷出来るようになるそうです。「そしたらホヤツアーできるよね」。「今は外から来た人に力を貸してもらっているけれど、いつかは自分達の手で発信して行きたいですね。ツーリズムも漁業に負けない山田町の産業カテゴリーにしたい」と若きリーダー将崇さんが語ってくれました。
「息子のような若者の上げる狼煙が次に繋がって欲しいと願っています。期待されてんだよ」と川村さんは息子の背中を叩きます。

川村芳宏さん

PROFILE

自家製麺・釜揚げ屋代表

川村芳宏さん

20代でうどん店を立ち上げる。被災後は、両親が営む山田町の伝統菓子「山田生せんべい」の工房も復活させ、仮設営業を経て2014年9月に新店舗を移転。

川村将崇さん

ジオトレイル代表

川村将崇さん

高校卒業後岩手県宮古市の企業に就職。被災後は父親の芳宏さんが営むうどん店を手伝う。シーカヤックのインストラクター資格を取得後、東北唯一のJSCA「C」公認カヤックスクール「ジオトレイル」の代表就任。

中村敏彦さん

牡蠣ホタテ漁師

中村敏彦さん

祖父の代から続く3代目牡蠣ホタテ漁師。「明神丸かき・ほたてきち(MIYOJIN K.H.BASE)」で、直販や浜焼き小屋の営業、養殖いかだの見学クルーズなどを手掛ける。今年2月からネットショップをオープン。

極め抜く人の自信が生み出す町の誇り 海沿いに立つ工場の中で生き生きと働く従業員たち。捌かれる大ぶりのホタテ達もさも自信ありげに見えます。最高の加工品を作りたいと射抜くように未来を見つめる川石睦さんの視線の奥には、家族や仲間を思う大きな優しさが潜んでいました。

出来ることを求め踏み出した父としての決断

出来ることを求め踏み出した父としての決断 自宅も工場も全て流されてしまった川石さんは、目の前の光景に人生で初めて膝から崩れ落ちたと言います。工場は震災前年に修繕したばかり。10年後の未来に賭けた大きな投資でした。それでも道を閉ざされた虚脱感と戦う内に、また別の道を拓こうじゃないかという闘志が沸々と沸くのを感じていました。
1カ月後、会社再建の糸口を求め知人のいる青森へ向かいます。「俺らみたいな小さな会社でも、地元の役に立てる時が来たんだ、せっかくだからカッコつけてやろう」と車を走らせましたが、町を離れるのが何よりもつらかったと言います。その時頭をよぎったのは2人の娘のこと。「大学を卒業させられるだろうか。決断するには十分な理由でしたね。自分にはこれしかできなかったし」と川石さんは振り返ります。

どんな逆境の中でも人を元気づける食の力

どんな逆境の中でも人を元気づける食の力 避難所に魚を持ち帰っても、炊き出しの汁物に入れたタラの切り身は一人ひとかけらだけ。それを大事そうにすする人が「あたたかい」と笑顔になった時、川石さんは食べ物屋で良かったと心底思ったといいます。「あのタラ汁の意味は生涯考えるでしょうね。食に関わる人間は一瞬にして人を笑顔にできる。それが食べ物屋の特権です。だからこそ納得のいくものを作りたい」と川石さんは語ります。
2011年の暮れ、川石さん達は北海道にいました。今年最後の出荷をしようと控えていた矢先、空路が使えず陸走に切り替えるというトラブルが発生。荷物を積み終えた午前3時、吹雪のなか街灯に照らされオレンジ色に光るトラックを見た時、「やれた」と初めて男泣きしたそうです。「自分にはこれしか出来ないと踏み切ったことが気付けば誰かのためになっていました。その一瞬が自分の自信になっています」。

人の思いを忠実に込めて生まれる絶対の自信作

人の思いを忠実に込めて生まれる絶対の自信作 川石さんは自信を持って加工品を作るために、私生活や人間性を見て「この人なら」という漁師を探すそうです。人がどれだけの技術を持ち、いかに努力できるかで大きく変わる牡蠣の品質。川石さんが絶対の信頼を置く牡蠣漁師は、細やかにそして延々と牡蠣と向き合う人なのだそうです。漁師に産直の売り場に立ってもらい、消費者の生の声を聞いてもらったりもするそうです。「漁師が漁師であり続ける自信を付けてほしいんです」。 川石さんが加工品に賭ける熱意は水産物だけに留まりません。「ホタテグラタン」に使う牛乳は、産地に赴き牛の生育状況までも学んだ上で納得した原料を使用しています。「こだわり抜くことで、自分の中で思いや自信が変わっていきます。気持ちを込めることはいいものを作る原点です」。そのグラタンを食べた方からは「こんなおいしいもの食べたことがなくて、どうしてもありがとうと伝えたかった」という電話もあったそうです。「感動しましたね。やってきたことは間違ってないな、と思いました」。

今年は隣地に工場を新設する予定だそうですが、新商品を作るよりも忠実に作り続けることを大切したいと川石さんは言います。「社員にはイヤイヤ作るな、作りたくない気持ちが入ると美味しくないと言っています。真面目に取り組んだ先には必ず答えがあります」。
土が盛られ、重機の音が響く今の町の様子を、壊されている気がすると表現する佐々木さん。数年後の町の姿は想像できません。「それでも『人がいる』ということを誇りに思いたいですね。自分にはついてきてくれた社員や漁師がいます。そういう思いを持って作っている人がいるということ。その存在こそが山田町が生きている証だと思います」。

川石睦さん

PROFILE

株式会社川石水産社長

川石睦さん

ウニ、牡蠣、ホタテ等を使った自社商品を通じ、クオリティにこだわった山田町水産品のブランド化を目指す。震災後5社共同販売会社「五篤丸水産」を設立し、販路拡大のため精力的に活動している。

若者の新しい暮らし方が創り出すまちづくり 空洞化が進む石巻の市街地で、建築という視点から空家などをDIYで改修し、新しい暮らし方を提案する若者たちがいます。彼らが創る手づくりの暮らしの場は世代を超えた価値観の共有を呼び、まちに再び賑わいを生み出しています。

ボランティアが住み始めたまちに必要なもの

ボランティアが住み始めたまちに必要なもの 震災当時石巻には約28万人の災害ボランティアが訪れました。その中で移住を決意し、長期的に石巻に関わろうとする人たちが現れます。一番の課題となったのが住居の不足。そこで空家や使われてない空間に手を加えることで移住者に住む場所や挑戦する場所を提供しているのが「石巻2.0不動産」というプロジェクトです。代表の渡邊享子さんは「場所を作らないと誰も残れないなと感じた」と語ります。
自身も震災ボランティアとして半年間のテント生活をしたという渡邊さん。震災から時が経つに連れて徐々に町には電気が通り、信号が付き、トイレが流れるようになりました。ひとつずつ前進する町の様子は渡邊さんに変化をもたらします。「世の中が成り立っている仕組みが分かりましたね。世界は手づくりで作れるのだと思いました」。

手づくりのまちで価値観をシェアするという生き方

手づくりのまちで価値観をシェアするという生き方 石巻に移住して気付くこともありました。都会で隣人すら知らずに生活してきた渡邊さんにとって、近所付き合い無しでは生きていけないという発見もまた新鮮でした。町の中心部は雨が降ると川の水が溢れ一帯が冠水します。若者総出で土嚢を運び、雨が止んだら皆で泥を掻き出すのが恒例となっています。
「そうやって皆でロスを計算しながら生きていて、助け合いながら経済的には測れない価値をシェアし合っているのだと思います」。昨年、高齢のオーナーが経営する老舗茶店の2階の空き部屋を改修したシェアハウスには、若い移住者や短期滞在の学生が寝泊まりをしています。ここでは日々の暮らしの中で、出身も世代も異なる者同士の新しいコミュケーションが生まれています。

「ここでもできる」若者の変化こそがまちの再生

「ここでもできる」若者の変化こそがまちの再生 電気や水が供給された町の復旧期を経て今、渡邊さんの描く町の再生とはどういう姿なのでしょうか。「ひとつひとつ電気が付いていった時は町の仕組みがイメージ出来たはずなのに、今は復興に伴う大きなインフラ整備に翻弄されて暮らし方自体が見えづらくなりました。だから場所を作ることはもちろん、そこで生活する魅力を発信していきたいですね。新しい価値観を感じる住まいや仕事場をつくることで暮らしの豊かさを見直していきたい」と語ります。それまで見えてこなかった地元の若者が徐々に力を貸してくれるようにもなりました。地元とヨソから来た若者同士がお互いの存在を認め合うことで、「石巻では何もできない」と思っていた若者が「ここでも出来る」と気づき、その変化こそが町の再生に繋がっていると実感しているそうです。

若者たちがつくる石巻の新しい暮らし方 まずは地域内外の若手が触発し合いながらかっこ良く暮らすこと、それを共有することで、石巻を変えていきたいと、渡邊さんは語ります。
「石巻が誰もが一度は住んでみたいと思うような憧れの街になるといいですね」。 今後は若い女性がキャリアイメージを広げられるようなオフィスや、漁師を志す若者を受け入れる家のような、働く場所と住まいとが連結した空間を創り出しながら、そこで生まれる新しいライフスタイルを発信していくそうです。

渡邊享子さん

PROFILE

ISHINOMAKI2.0

渡邊享子さん

東京工業大学大学院に在籍しながら石巻に移住し、子どもや若者のための場づくりに多数関わる。「2.0不動産」のプロジェクトをリーダーとして運営し、同じく移住したクリエイター達とともに被災した建物の空きスペースを再利用し、新しいライフスタイルを発信している。
「2.0不動産」は、建築・デザインを学んだ20歳代の若手メンバーが立ち上げたプロジェクト。

大漁旗から見える新しいまちの未来図 漁師にとって大切な船の名を染め込んだ大漁旗は、海に生きる彼らの誇りそのものです。被災した大漁旗をリメイクし新しい命を吹き込むブランド「FUNADE」。「浜の女性に雇用を」と始まったものづくりの場では今「つくるよろこび」が生まれています。

漁師から引き継いだまちへの思い

漁師から引き継いだまちへの思い 震災当時京都でアパレルブランドを立ち上げていた田中鉄太郎さんが石巻を訪れたのは、災害ボランティアがきっかけでした。がれきが徐々に片付きつつあった頃、田中さんは今まで自分がやってきたものづくりで、次の支援ができないかと考えるようになります。石巻らしい素材を探す中で見つけたのが、泥にまみれてもなお色鮮やかな大漁旗。「これだ! と思いました」。「この大漁旗を使ったものづくりの場を設けることで、家や仕事を失くした人が働く場所を作りたい」。そう持ち主の漁師に説明すると「このまちの為になるなら」と快諾してくれたそうです。まずはその旗で地元の祭り用のはんてんを作り、その漁師に着てもらいました。失われた町並みの中で響く威勢のいい掛け声と、みこしの下で生き生きと舞う大漁旗。「まちのために」。田中さんはこの意志を引き継ぎブランドの立ち上げを心に決めます。

「忘れて欲しくない」を届けるブレスレット

「忘れて欲しくない」を届けるブレスレット 「FUNADE」が軌道に乗ってきた頃のあるお母さんの言葉。「震災当時は生きていくだけで精一杯。がれきがなくなった今になって将来のことを考え出して不安になる。今だからこそこのまちのことを忘れて欲しくないの」。田中さんは、漁師から託された大漁旗をよみがえらせる意義を、いつもこの言葉から思い出すのだそうです。
震災当初は少しでも生活費の足しになればと漁の合間にブレスレット作りの内職をしてくれていたお母さん達。漁業が安定してきた今は、内職する数を減らす人も出てきました。「それはそれでうれしいことです。家計の足しになればと始めてくれたお母さんも、今では作ること自体が楽しくてしょうがないと言ってくれます」。ブレスレットの生産が追いつかない時には、一日に作る個数を増やしてくれることもあります。生産量をこなすことでお母さん自身のスキルアップにもつながり「もっと作りたい、他の物も作ってみたい」と意欲的に申し出てくれる人もいるそうです。

まちに集まる人のエネルギー

まちに集まる人のエネルギー 「FUNADE」の実店舗は約2mの津波が襲った石巻の中心地にあります。周囲は再開発の為に少しずつ更地になり建替えも進み、様相は刻々と変わっていきます。その町並みを眺めながら田中さんは言います。 「過渡期を迎えた今は、地元の人は自分の生活や商売のことが心配で、まち全体を考えることが難しいかもしれません。どこかひとつのお店だけが順調に繁盛すればいいのではなくて、人の流れをトータルで考えて、いい『まちづくり』をするために動いてくれる人が必要です」。
県外から移住した田中さんは、このまちの魅力をこう感じています。「石巻で新しく出会う人たちは、何かをする為にエネルギー持参で来ているから面白い。何でもできる可能性がある場所です」。

田中さんは、これまで自分が経験したことを外に伝えていきたいとも考えています。「それぞれの地域の特色を生かした、ものづくりから始まるチャンスの種をまきたい」と夢を広げます。「ものがかわっても経験は変わりません。大漁旗に出会ったのも縁ですから、いろいろな漁師町を巡るのも面白そうですね。東京では出来ないことに挑戦していきたいです」。

田中鉄太郎さん

PROFILE

FUNADE 結日丸

田中鉄太郎さん

2009年京都にてアパレルブランド「OMUSUBI」を設立。災害ボランティアとして訪れた石巻で出会った大漁旗を漁師さんから譲り受け、「結日丸」を始動。地元のお母さん達の雇用と経済的・精神的自立に繋げている。

人を通じて、地域に恋する石恋プロジェクト 一般の市民がその趣味や特技を活かし「達人さん」として出番を持つことで、よろこびを見いだしひとりひとりが輝いていくプログラムがあります。人が人を育て、やがて起きる化学反応はまちを鮮やかに変えていきます。

教えるよろこびを生む「達人さん」のワークショップ

教えるよろこびを生む「達人さん」のワークショップ 「石巻に恋しちゃった(通称:石恋)」は、震災後に発足した復興支援団体「石巻復興支援ネットワーク(やっぺす)」の活動の一部として2013年に開始。一般の市民が講師役となり、絵手紙やヨガ、菓子作りなど自分の特技を「教える」という試みです。立ち上げ当初から担当しているのが、戸田香代子さんと小松佳代子さんでした。「私たちも石巻の普通の主婦なんですよ」。
「石恋」の担当に任命されてからは無我夢中。まず講師となる「達人さん」を見つける為に、親戚や友人など身近な人に手当たり次第に頼み込み、なんとか24プログラム26人の達人さんのワークショップを始動することに成功します。
「この2人の巻き込み力はすごいんですよ」と言うのは、大阪から移住し同じく石恋の運営にあたる山口智大さんです。自分の小さな趣味がまさか教える程のものだと思っている人は少ないものです。それを戸田さんと小松さんは「出来るよ! 一回やってみよう!」とぐいぐい押すのだそうです。

輝きはじめる 達人さん×達人さんの化学反応

輝きはじめる 達人さん×達人さんの化学反応 最初は言われるがままに始めた達人さんでしたが、回を重ねるごとにひとりひとりが変化していくのを感じるそうです。1プログラムだけ引き受けてくれた達人さんは、今では自発的にプログラム数を増やし、後輩の達人さんにアドバイスをする程になったそうです。石恋という場以外でも、達人さん同士がコラボ企画を始めることもあるそう。「お互いがお互いの価値を認め合って、コミュニティが広がっていく、そういう化学変化が起こっていると思います」と小松さん。
夢を語る達人さんも増えたそうです。ギネス挑戦を目指す人や、講師免許を取る為に東京に通う人、中には諦めていた自分の店を出すという夢を叶えた人もいるそうです。「やる気に火をつけた側としてはヒヤヒヤしますが、ひとりひとりが輝き始めているなと感じます」。

好きではなかったはずの石巻を想う今

好きではなかったはずの石巻を想う今 今年からは“石恋”ツアーを実施。1年に数回、仙台を発着地としてバスツアーを実施し、市外や県外の人にも地元で頑張る人の姿に共感してもらいたいとしています。また継続的に応援してくれる賛助会員の募集も始めています。「“石恋”に参加できる入口を増やしていきたいですね。達人、一般参加、ボランティア、賛助会員など、いろいろな関わり方が出来るようにして、皆の“石恋”にしていきたいです」。数年後はもっと達人さんを増やすのが目標。「ひとりで来ても大勢で来ても、達人さんがたくさんいたら、訪れた人が迷わずに石巻を楽しめるでしょう」。そのために「普通の人」のチャレンジをひとつひとつ応援していくそうです。
「震災から4年、頑張っている人は前に進んでいますが、そこまでたどり着けない人もいます。他の人は頑張っているけれど、自分は…と、余計に落ち込む人もいるのです。“石恋”は何かしたい気持ちや、あと一歩踏み出せないステップをバックアップしながら寄り添って行きたいです」。

戸田さんは言います。「ずっと石巻が好きではありませんでした。見ようとしていなかったのだと思います。半島の方にも行ったことが無かったですし、自分の周りの人としか付き合いがなかったんですよね。だけど“石恋”を通じて興味が沸くようになりました。もっといろんな人がいるんじゃないか?と自分自身がワクワクしています」。
山口さんの一言に、未来へのヒントが詰まっていました。
「私達自身がこの活動によって石巻に恋しちゃったってことですね」。

石恋

PROFILE

石巻に恋しちゃった

戸田香代子さん 小松佳代子さん 山口智大さん

「石巻に恋しちゃった」は女性や子どもを始めとする市民に学びや活躍する機会を提供し、社会基盤づくりを行う石巻復興支援ネットワーク(やっぺす)を母体としている。「かよちゃんず」こと地元の戸田香代子さん&小松佳代子さんと、京都のNGOを経て入職した山口智大さんは「石巻に恋しちゃった」事業部を担当し、講師となる「達人さん」発掘やフォローに駆け回る中、工場見学ツアーなど新たな来訪者を増やす試みにも挑戦している。

石巻復興支援ネットワーク

石巻の母親らが中心となって活動している復興支援団体です。
石巻の未来の為に、市民ひとりひとりが支え合い、課題をみんなで乗り越えていける社会基盤を作ります。

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「ジャパン」を背負う若手漁師の起こす旋風 後継者不足に直面している水産業の世界。震災以降その問題は深刻さを増しました。その中で新たな産業スタイルを創り出そうと立ち上がった若手漁師たちがいます。彼らが掲げる「稼げてカッコいい漁師」の姿とは。

目指すのは、戯れ言で終わらないカッコ良さ

目指すのは、戯れ言で終わらないカッコ良さ 水産業に関わる若手とIT従事者の13人で、販路開拓やツーリズム、ファンクラブを設けての情報発信など、新たな試みに挑戦しているフィッシャーマンジャパン。目指すのは「稼げてカッコいい漁師」。「水産業が危機的なのは震災のせいだけではないんです」と話すのは、津田祐樹さんです。漁師は魚を納品するだけで、流通とは隔たれた構造の中にいます。価格の決定権はなく、安定した所得を得ることが難しい為、後継者も減少の一途を辿っています。津田さんは、漁師が稼げる仕組みを作ることが、産業の根本的な問題の解決に繋がると言います。「カッコいい漁師になる一番の条件は稼げること。経済のベースがないといくら綺麗なことを言っても戯れ言で終わってしまうんです。後継者も仲間もついてきません」。

仲間ができたことで生きる営業力

仲間ができたことで生きる営業力 津田さん自身は鮮魚店を営み、漁師から魚を買い取り販売する立場です。学生時代は水産業に興味はなく、経営学を学ぶために大学に進みました。実家の鮮魚店の経営が傾き、それを立て直す為に地元に戻ります。軌道に乗ったら家を離れようと思っていた矢先の震災。一度岐路に立たされた津田さんですが「このままでは水産業が終わる、自分がやらねば」と奮起しました。悔しい思いもしました。いくら販路を見つけてきても、商品を充分に調達出来ないことが続きました。「これしか出せないからここまでしか売れない」という供給の限界があったそうです。しかしフィッシャーマンジャパンの「営業マン」として動けるようになった今は「皆の在庫は俺の在庫という位の意気込みで売り込んでいます。単独で出来なかったことが皆でカバー出来るから、どんどん営業が出来ます」。販路拡大の勢いは止まらず、今では大手量販店とも取引が出来るようになっています。

視野は広く世界へ。30年後の漁業を背負う覚悟

視野は広く世界へ。30年後の漁業を背負う覚悟 30年後世界はもっと近くなり、ヒト・モノ・カネの出入りが顕著になります。ヒトと共に技術は流出し、国内にはモノが入り込むその時代に起こりうることを津田さんは懸念していました。「今の水産業は単純作業。しかも一次産業自体もピラミッドの底辺にあると認識されています。世界を見据え、生産性のある上位の産業を作らないと、やがてくる未来では戦えません」。
「海流、気温、地形などの自然条件が偶然揃っている点では魚は石油と同じ位の資源。海外がマネしようとしても技術移転はできません。漁業は“パクれない”日本の宝なんです。それを今立て直し漁業を要となる産業にしたい」。日本屈指の水揚げ量を誇る石巻の漁港には、年間200数十種類の海産物が揚がります。絶対的優位な資源が石巻にあるのだと、誇らしげに津田さんは教えてくれました。
「30年後の水産業を作るのは俺らだから、俺たちが先頭に立たないと」。

世界を意識した「フィッシャーマンジャパン」という名前。彼らは2年後の2017年に東南アジアに現地法人を立てることを目指し、マレーシアとの取引を始めました。
「世界に出れば出る程アイデンティティーを持つことが大事だと思います。島国だった日本も地方都市も、内側だけで価値観を共有していれば良かったから、自分のルーツについて考える必要がなかったけれど、様々な価値観が交錯するこれからは、自分達の資源、商品を完全に知ることで、その魅力を伝えられるのだと思います」。

津田祐樹さん

PROFILE

フィッシャーマンジャパン

津田祐樹さん

「(株)石巻津田水産/津田鮮魚店」の2代目として、卸事業や鮮魚の小売業を営む。仙台に自身の名が付く居酒屋を展開するほか、参画するフィッシャーマンジャパンでは、メンバーの穫った水産物を日本だけでなく、世界に流通させるべく海外にも飛び回る。

復興デパートメント宮城県 フィッシャーマンジャパンおすすめの商品

宮城を代表する漁師たち自慢の品をセットで
石巻の牡蠣がおすすめLサイズ20個
三陸十三浜わかめしゃぶしゃぶ
三陸十三浜わかめしゃぶしゃぶ

ITで勝ちにいくまちの未来に賭ける熱意 石巻市中心部の一角に小学生から大人までが集う空間があります。若者たちがパソコンを囲むそれは、これまでの田舎観を変える光景です。地域に新しい産業を作り出すとともに彼らが思う石巻の姿について伺いました。

未来を創るIT人材を生み出す個性派集団

未来を創るIT人材を生み出す個性派集団 10年後石巻から1000人のIT人材を生むことを掲げ、代表の古山隆幸さんが立ち上げた「イトナブ」には、プログラマーの他、デザイン、映像、マーケティング、ライティングなど、個性的で多様な社員が集結し、講習やイベントを行いながら、若者がソフトウエア開発やデザインを学ぶ場所と機会を絶えず提供しています。「イトナブ」で学び、アプリを作れるようになった小学生から大学生は約70名。もともとパソコンすら触ったことのない子供達がいる中で、約20名が継続して学びたいと自らここに集まります。2013年から工業高校の選択科目としてイトナブ社員が教壇に立ったアプリ開発の授業は、昨年から必修科目に変わりました。2012年から始まったプログラマーたちが技術とアイデアを持ち寄る「石巻ハッカソン」の参加者も100人に上りました。

行動型と思考型のふたりが起こすイノベーション

行動型と思考型のふたりが起こすイノベーション 古山さんは石巻出身。就職率9割という工業高校で学びながら、いつしか自分も与えられた就職先一覧の中にある企業に就職するのだろうと思っていたそうです。「ITを学びたいというイメージはあったものの、石巻にはその舞台がありませんでした」。その後東京の大学に進学し、次々と起業する同級生達に触発され、在学中にweb制作会社を立ち上げます。
「地元を離れたのは選べる程の産業が無かったから。今の自分に被災した地元で何が出来るかと思った時、ITという新しい選択肢を作りたいと思いました」。 古山さんの片腕として写真や映像制作、ワードデザインなどのクリエイティブワークで脇を支えるのが嶋脇佑さんです。嶋脇さんは震災時県外で通信インフラの復旧業務にあたっていました。「ずっと機械相手でしたが、作業中に住民の方に感謝されたんです。自分の求めていた“ありがとう”に出会った気がして、もっと人に近い所に行きたいと思うようになりました」。
行動派の古山さんに対し、嶋脇さんは思考派。お互いが足りない所を補い合い、いい意味で刺激し合える仲なのだそうです。ないものを持ち合う2人は「俺たち自身がイノベーション中」と笑い合います。

石巻が逆転する時の主役は僕らじゃない

石巻が逆転する時の主役は僕らじゃない 「東京にはカッコいい大人がいて、刺激もある。町は動かせないけれど、人は動かせるから」と、当初は東京からエンジニアを招いていました。その大人達に触発された高校生がある程度技術を習得すると、小学生に教える場面も出てきたのだそうです。「自発的に学ぶ場にする為に教えることに挑戦する環境を作っています。今の子供たちが大人になった時、たとえイトナブがなくなったとしても、ひとりでも優秀なIT人材がいて、1000人のエンジニアが集う地盤が出来ていれば、ITという産業で石巻は一発逆転できると思うんです」。
今年古山さん達は沖縄国際映画祭にCMを応募。「自分達がチャレンジする背中も見せないとね」。自分のスキル以上に前のめりになって「勝ちにいく意識」を育てて行きたいと古山さんは語ります。

ITで勝ちにいくまちの未来に賭ける熱意 嶋脇さんが住むシェアハウスは、老夫婦が営む商店街のお茶屋さんの2階にあり、社会人や学生が共に生活しています。「石巻には港町が元来持つ多様的なDNAのようなものがあり、それが震災を機に戻ってきているのではないでしょうか。異種同士が混ざり合い、新たなものが生まれることがまちの発展に繋がるのだとしたら、私達もITという切り口で革命を起こしたいですね」。
古山さんが高校時代感じた新しい産業の不在。地元に残る若者が新しい舞台を自らの力で築けるまちにするために「刺激的なIターンを呼びこみながら、ITという分野で戦っていきたいと思っています」。

3.11 向かおう、未来に
未来を切り開こうとする人たちが
たくさんいる石巻は、
これからもっと面白くなる。
その道のりは映画のように山あり谷あり。 今回は石巻の物語を少しだけご紹介。
続きは未来で

制作 一般社団法人イトナブ石巻

古山隆幸さん

PROFILE

一般社団法人イトナブ石巻 代表理事

古山隆幸さん

「イトナブ」代表理事。東京で自身が設立したWEB制作会社で活動する一方、母校である石巻工業高校においてソフトウエア開発の授業を行う等、精力的に地元の子供達がITについて学べる環境を作り出している。

嶋脇佑さん

一般社団法人イトナブ石巻

嶋脇佑さん

青森県八戸市出身。福島県で通信インフラ系の会社に3年間勤務後、NPO法人ETICの右腕制度を通じて「イトナブ石巻」に参画。現在は理事兼スタッフとして、イベントの企画運営や写真、映像、文章による情報発信を担当している。

牡蠣漁師が踏み出した「6次化」の今 厳しい現実と向き合いながらも、未来の漁業の姿を見据え、ひとつの会社を設立した漁師たち。それまで生産物を漁協に納めるに留まり、消費者と関わりのなかった彼らは「直接販売する」ことで少しずつ新しい活路を見いだしています。

消費者が支える漁師たちの新たな挑戦

消費者が支える漁師たちの新たな挑戦 石巻市牡鹿半島の南側に位置する狐崎浜。約30世帯が軒を連ねる小さな集落です。浜の暮らしを支えていたのは牡蠣の養殖。しかし震災後、18人いた漁師の約半数が浜を出ていきました。そこで生産だけではなく、加工、販売まで手掛ける「6次化」にうって出ようと、古内新一さんを中心に漁師仲間が集い設立したのが「(株)宮城県狐崎水産6次化販売」です。
2012年から挑戦しているインターネット販売では、自宅でも専用缶で焼き牡蠣が楽しめる「岬焼かき産直セット」を開発し販売しています。専用缶は繰り返し使えるため、「もう一度食べたい。牡蠣だけ欲しい」という声に応える「岬焼おかわりセット」を用意するなど、食べる人目線での商品づくりも進めています。

仲間とひとつひとつ築き上げた漁師の会社

仲間とひとつひとつ築き上げた漁師の会社 もともと漁師は一国一城の主。それぞれ考え方も違います。ひとつの会社としてまとめる為に何度も議論を重ねました。その中でひとりひとりのやり方や思いを尊重しようと、漁師たちが心に留めていた言葉があります。社内の壁に貼られている「人の話を最後まで聞こう」という標語。会社設立時から運営に関わっているアドバイザーが用意した言葉です。「パソコンばっかりいじくっているヤツだけど、牡蠣剥きでも何でも手伝ってくれるよな」。 社内の役割も自然とできてきました。今では、黙っていても社内の若い漁師が率先して肉体的につらい仕事をやってくれます。「俺はただここで若いのが採ってきた牡蠣を詰めるだけ」と冗談めく古内さん。毎日の繰り返しの中で自然と世代ごとに役割分担が生まれ、朝早い牡蠣の水揚げも若い彼らが中心となって動いてくれるのだそうです。

ゆっくりとかたちになる消費者とのつながり

ゆっくりとかたちになる消費者とのつながり 震災後浜を離れようと思ったことはなかったのでしょうか。「離れるもなにもどこにいけばいいのさ。昔からやってきたことだし、この浜で牡蠣をつくることしかないの」。後継者の数は充分ではありません。あと数年たてばこの浜の牡蠣漁師はさらに半分に減ってしまうと、若い漁師の背中を見つめます。 それでも少しずつ漁業体験のような新しい試みも始め、消費者との繫がりも生まれています。昨年受け入れた牡蠣漁体験も参加者の満足度は高かったそうで、「牡蠣だけでご飯が食える! っていう女の子がいてびっくりしたよな」と古内さんは顔をほころばせます。
狐崎浜の牡蠣は、外海の荒波で育てるため身が締まり味は濃厚だと言われています。しかし古内さんは「自分の浜の牡蠣が特別うまいなんて意識したことがなかった」と言います。それを教えてくれたのは消費者の一言でした。「一度うちのを買ってくれたお客さんが、他のを食べた後にやっぱりうちのがいいって戻ってきてくれたんだ」。

震災から3ヶ月後の6月に無我夢中で種付けした牡蠣は、努力の甲斐もあり、翌2012年から出荷できるようになりました。今年は立派な4年子に育ったそうです。その牡蠣を、津波に耐え抜いた船で水揚げし出荷できた歓びを噛み締め、古内さんは今年もまた、仲間と共に水揚げの最盛期を迎えています。

古内新一さん

PROFILE

(株)宮城県狐崎水産6次化販売

古内新一さん

震災により漁具等を失うも、石巻市狐崎浜の牡蠣養殖漁業仲間と共に「株式会社狐崎水産6次化販売」を設立。家族の手伝いにも支えられ、牡蠣を使った商品を開発、消費者へ直接販売する6次産業化に挑戦しながら、後継者の育成を目指す。

復興デパートメント宮城県 狐崎水産おすすめの商品

岬焼おかわりセット
岬焼おかわりセット
かきをレンジでポン
かきをレンジでポン

高校生の「おいしい」がつなぐ無限大の未来 福島・相馬市など相双地域の高校生が、大人顔負けのスゴイことを考えました。「地元のおいしい食べものと今の情報を私たち目線で届けたい」。「高校生はブランド」と公言し、地域の大人も巻き込んでいく。大震災当時中学生だった未知の力が、福島を変える主役になりつつあります。

全国有数の産品と手作りの情報のセット

全国有数の産品と手作りの情報のセット 「全国のみなさんに、食べものと情報を私たちの目線で届けたい」。1月下旬。高校生6人が、ボランティアに訪れた福島大の学生約40人を前に、自身の手掛ける事業をPRします。まだたどたどしさは残るものの、その斬新なアイデアに「自分たちが高校生の頃には考えもつかなかったよ」と大学生からも驚きの声があがります。
この日は「そうまうま定期便」の発送作業。全国品評会で最高賞を2年連続獲得した醤油や金賞の米、ブラックペッパー味の韓国のりなどをこんぽうします。さらに手書きの生産者紹介文やメンバーの「手紙」もつけて。2万円で年4回発送の定期便です。

自分たちが食べておいしいものを

自分たちが食べておいしいものを きっかけはソフトバンクの短期留学「TOMODACHI」プログラム。アメリカの地域課題を学び「自分の地元にどう生かせるか」を考えるというものでした。相双地域の6人は帰国後、その経験を生かし被災地のためにできることを探し始めます。
そして、相双地域の放射能に関する不安要素を取り除くためにも、自分たちが食べているものを自分たちでセレクトする、食の定期便というかたちにたどり着きます。「ちゃんと検査されているのに、自分たちが食べておいしいと思う福島のものを買わないのはおかしい」、背景には彼女たちのそんな強い思いがありました。発案から紆余曲折をへて、一時メンバーは3人まで減りましたが、前年に参加した深谷華さんが新たに加わり、4名でのスタートをきることになりました。

「トモダチの木」を全国に

「トモダチの木」を全国に 開始当初はアポなしの、まさに突撃営業。慣れないながらも熱心に営業活動を続ける彼女たちに、支援を申し出た中村松川堂の今野時子店長は「地域の大人たちも動きが鈍いのに、元気が良かったの」と当時を振り返ります。
食の定期便と同様の取り組みは他の地域にもあることから、彼女たちは「高校生らしさ」にこだわることにしたそう。自分たちで食について調べ、その情報を手書きのイラストで伝える。調べるうちに地元には食が豊富であること、実はその中にもあまり知られていない隠れた名産品がまだまだあること、多くのことを発見していきます。
団体名のtreesは「大きな木」がイメージ。「地元に根づき、地域や地域の外とつながって、葉をたくさん広げたいんです。他の地域の高校性に福島の思いを伝えて、一緒に作業をしてほしい。『ツリーズの支店』をたくさん作れば、木がおおきくなるんじゃないかな」と彼女たちは話します。この冬には北海道や西日本にも足を運びました、ツリーズの「種」を他の地域にも植えるために。

「夢」は高校生ワード

地域の大人が思う相双地域の夢も広く伝えようと、自分たちでDVDの制作も行いました。副代表の華さんは「夢や希望って『将来が無限大』の高校生ワードだと思うんです」と胸を張ります。そんな彼女の夢はもっとこの土地に全国から人がきてもらうこと。「みんな原発は知っているけれど、この地域についてはほとんど知らない。つなぐ架け橋になりたいんです」。
鴫原菜穂さんの夢は「東京五輪では『Jビレッジ』で相双の食べものでおもてなししたい」。Jビレッジは女子サッカーをしていた華さんがいつも試合をしていたという思い出の地。今は原発最前線の拠点ですが、男女それぞれのサッカー代表の拠点にする構想もあるといいます。
「その次は海外だね! Do you know "SOSO(相双)"? ……Of course! って」彼女たちの笑顔がはじけます。地元から全国にと木が育つように広がるtrees。五輪をきっかけに海外にまで、その種をたくさん飛ばすのが彼女たち「高校生」の夢です。

rees

PROFILE

trees

相双地域(相馬市や双葉郡)在住・出身の高校生4人で、2014年春に設立。年4回、地域の食材と情報を送る「そうまうま定期便」を実施。サポート施設「復興支援センターMIRAI」の支援を受けながら、高校生が主体となり活動を続けている。

「住民ゼロ」の小高、荒野を1人で切り開く 福島原発20キロ圏内の南相馬市小高区は、原則宿泊できず「住民はゼロ」。若者は避難して高齢化が急速に進み、「20年後の日本」が南相馬に現れたとも言われています。そんな小高で昨年1人の若者が起業。手探りの荒野を「開墾」し、協力の輪を広げています。

福島に現れる「2035年のニッポン」

福島に現れる「2035年のニッポン」 ロードサイド店の明かりが連なる南相馬市中心部とは対照的に、同市小高区の夜はまさに「漆黒」の世界。昼間は出入り自由となっていますが「家は無傷でも住めない」ため、住宅に光はありません。原発事故で南相馬市の高齢化率ははね上がり、その人口構成は「2035年の日本」とも言われています。規制が解除され住民がそれぞれの家に戻る予定の来年4月、このまちに「20年後のニッポン」の姿が現れるのです。
JR常磐線小高駅は鉄道再開のメドが立っていません。駅構内は施錠され、2011年3月開催のイベントポスターがいまだに貼ってあります。駅前から伸びるメイン通りはいつも真っ暗。その中に一軒だけ明かりを灯す場所があります。それが38歳の和田智行さんが開いたシェアオフィスです。

小高と首都圏、「現実はどっちなのか」

小高と首都圏、「現実はどっちなのか」 和田さんは震災前、東京でシステムエンジニアとして働いていました。震災後も東京で仕事を続けましたが、「福島と首都圏のギャップ」に悩むようになります。「東京はすでに普段通りの生活に戻っていたのに、ボランティアで地元に戻ると、時が止まっているようでした」。その差がやがてつらくなり、震災翌年の4月に福島県会津若松市に移住するも、その福島県内でも「格差」を感じることがあったそうです。小高は荒れ果てていき、周囲は普段通りにみえる生活。「現実はどっちなのか」と悩みが深まり、小高に戻ることを決意します。
和田さんは2014年5月、住民の力で町を動かす拠点とするべく、20キロ圏内初のシェアオフィスを作りました。既に震災から3年がたっていたにも関わらず、その頃は水道も使えませんでした。ごみ収集は今もなく、ゴミは全て自宅に持ち帰ります。妻子が暮らす会津若松市へは車で3時間。「妻子と小高に戻って住むことを決めました。家族を養うためには事業をどう進めたらいいか、日々試行錯誤しています」。

住民の夢がつながることで灯る、まちの明かり

住民の夢がつながることで灯る、まちの明かり 和田さんが販売担当として関わる「天織りプロジェクト」。中心となって住民を引っ張る久米静香さんは、2013年5月から毎月1回、住民同士が集まり話し合う「芋こじ会」を続けています。始めた頃の話題は「愚痴や不満」ばかりだったそうですが、数ヶ月もたつと「昔、蚕を飼っていた」という話題が住民達の間から沸き上がります。それには普段口を開かない人までが「我が家でも飼っていた」「織物したい」と乗ってきたそうです。これを機に、蚕を育て「100%手織りで小高産シルク製品」を作る「天織りプロジェクト」が始まりました。
全員が「糸作り」もままならない素人。久米さんは「夢は遠いですが、私たちは現在マイナス状態。やりたいことをやることで、少しでも前に進んでいきたいです」と語ります。「芋こじ会」の仲間の1人は、住民たちの「食べる場所がほしい」という思いを抱き、小高初の飲食店「おだかのひるごはん」を作りました。

「サムライ構想」

「サムライ構想」 元相馬藩の「殿」も仲間に加わっています。34代当主の相馬行胤(みちたね)さんは、和田さんと協力して「起業コンテスト」を開き、「殿のわがまま」で「いいね」と思ったアイデアに資金援助する仕組みを考えています。和田さんは「対話での合意形成では進みません。スピード重視で突き抜けた事業を育て、小高にビジネスプレーヤーを増やしたい」と話します。
和田さんは「まちは元々、行政が作ったのではなく、先人の誰かが『森林』を切り開いて始まったんです。イチからまちを作る作業は、先の歴史でもないのではないでしょうか」。
「もがいた結果、高齢化社会のモデルを作りたい」と夢を語る和田さんのシェアオフィスの両隣では、旅館が改装工事を進め、アンテナショップも開店しました。「漆黒」だったまちに「光」が増えてきています。

和田智行さん

PROFILE

小高ワーカーズベース 代表

和田智行さん

2005年、東京のITベンチャー役員就任時に、南相馬市小高区にUターン。震災後は避難先を転々とし、現在妻子は会津若松に避難。福島第一原発20キロ圏内のJR小高駅前に2014年5月、警戒区域初のシェアオフィスを開業した。小高区は来年4月、住民が帰還できる予定。

本物の「魚屋」、親子で求める夢 相馬の魚は「常磐モノ」と呼ばれ、築地でも高い評価を得ていました。しかし原発事故後は、週1回程度の漁(試験操業)に制限されています。そんな中、多くのツアー客を受け入れる高橋永真さんは、相馬のキーマンとして、東京から戻ってきた息子とともに、新たなうねりを生み出しています。

朝の港に戻った活気と、なお残る現実

朝の港に戻った活気と、なお残る現実 1月下旬の朝。港には、カレイやイカ、タラなどさまざまな魚介があがります。関係者が慌ただしく作業するも、作業はほどなく終わってしまいました。
福島第一原発から約40キロの所に位置する相馬港。相馬の漁師たちは、沖合に数十キロ離れた海域でもともと穫れる魚を中心に、港に揚げています。国の基準値100Bq/kgを大きく下回る魚種を対象に定め、今年1月現在で穫れる魚種は57種類に増えました。
獲った魚は、放射能検査を行います。相馬と小名浜(いわき市)で検査が行われます。50Bq/kgを超えた場合、その魚介類が出荷停止となる厳しい検査です。検査結果は、福島県漁連のサイトで公開されています。

相馬の漁師を挑戦させる「金のなる木」

相馬の漁師を挑戦させる「金のなる木」 ただ、漁が難しい環境でもあります。「商売道具」の網が破れたり、転覆のリスクもあるからです。しかし漁師たちは競って海に出ていきます。「平らでないところに、金は落ちているから」と菊地さんは事も無げに言います。
福島県の海岸部は高速道路の整備も遅く、首都圏とのアクセスに恵まれているわけではありませんでした。しかし「活魚発祥の地」と呼ばれるゆえの工夫が施された流通が生まれ、スーパーや飲食チェーン店との契約が増えるにつれ、港は活気づいていきました。「昔は20歳で年収1000万円の漁師も珍しくなかった」と高橋永真さんは振り返ります。

魚屋は消費者と交流するための選択肢のひとつ

魚屋は消費者と交流するための選択肢のひとつ 原発事故で状況は一変。漁(試験操業)の魚種も増えてきたとはいえ、今後どの程度お客がついてくるかも不安です。高橋さんは「『普通操業』になったら元の状態に戻れるとは限らないし、先のことは考えられないな」といいます。
東京に出ていた息子の大善さんが戻ってきました。高橋さんは「一番厳しいときに戻ってきたと思います。魚屋はさせたくない」といいます。
しかし、大善さんは次を見据えています。「魚屋は選択肢の1つでしかありません。インターネット通販を通じて、客とわれわれが直接取引することで可能性が広がるのではないかと思っています」。水産以外の業態も視野に入れ「客との直接コミュニケーション」に活路を求めています。

「本物」を直接届ける

高橋さんは、水産の次の活路として「陸の漁業」にも着目しています。うなぎを陸上の施設で「つくる漁業」です。「仲間の活魚車も活用できると、地域が盛り上がりますから」と、大消費地・仙台を狙い、宮城県内に加工施設を建てることも検討しています。
高橋さんは、現在の仕組みを乗り越える必要性も感じています。「これまで高いか安いかが重要な指標でした。でも値段を追いかけた結果、どこも厳しくなりました。これからは『本物で、うまいか、そうでないか』です」。

高橋永真さん

PROFILE

水産加工会社 センシン食品 社長

高橋永真さん

親戚の水産加工会社に25年勤務後、2007年独立し、水産加工会社「センシン食品」を経営。津波で被災し、現在は仮設住宅に住みつつ、漁が制限されている水産業の復興に奔走する「相馬のキーマン」。被災者支援のNPO法人「相馬はらがま朝市クラブ」理事長も務める。

「打倒和田山」最高牛農家の知られざる素顔。 相馬市で、A5ランクの最高牛を生産し続ける和田山孝明さん。福島県内では賞を総なめにし、他県からも「打倒和田山」と目標にされています。その「牛作り」は、肉屋との二人三脚から生まれたものでした。

きれいな牛舎で行う「お母さんの仕事」

きれいな牛舎で行う「お母さんの仕事」 牛舎のイメージが覆されるほど、通路はきれいに掃除され、道具は整頓されています。そこは、「管理の秘密に迫る」とカラーで業界誌に紹介されたほどです。「臭くないから、牛がたっぷり寝て育つんでしょう」と和田山さんは話します。
牛舎内にはタイヤが設置されていました。「遊びだね。牛も遊びがないと、大きく育たないですよ」。かゆい場所をかくブラシもあり、これで「遊ぶ」牛は、見た目がピカピカしています。
和田山さんは肥育農家。「繁殖農家」が9カ月まで育てた子牛を買い付け、立派な大人の牛に育てています。「みんなもらってきた『息子』だから、一頭一頭よく観察して、性格を見分けないと。お母さんの仕事ですね」。丁寧な「子育て」が、良質な肉を作るのだそうです。「がっと盛り上がった背中が割れてみえると、かっこいいでしょう? 皮が肉をぐっと抑えるほど膨らむと、いい肉ができるんです」。

精肉店と生んだ「相馬牛」ブランド

精肉店と生んだ「相馬牛」ブランド 和田山さんの本格的な牛作りは、まだ10年足らずというのも驚きです。市役所を早期退職し、父から引き継いだ牛舎に加えて、新しい牛舎も作りました。現在人気の血統「安福久」に、早いうちから目をつけたのも和田山さんでした。しかし飼うのが難しい血統ということもあり、「体が弱い面があって。大きく育てるために、絶えず勉強しています」。
A5ランク牛にしぼった「相馬牛」の販売が始まったのも、約13年前です。地元の精肉店・鳥久精肉店の50周年事業の一環でした。店はメンチカツなど手軽なものもあるせいか、いつも地元客でにぎわっています。「A5ランクだけをこれだけ食べられる店は珍しいはず」と鳥久精肉店に感謝している和田山さんは言います。和田山さんは2013年、県内4つの共励会で全て最優秀賞となるグランドスラムを達成しました。そんな高級牛が、相馬では手軽に食べられるのです。

肉牛農家と精肉店、地域で乗り越えた苦難

肉牛農家と精肉店、地域で乗り越えた苦難 日本の肉牛農家は、多くの困難に直面してきました。2001年にBSE(牛海綿状脳症)が問題になり、宮崎県などでは2010年に口蹄疫問題も起きました。そして2011年の東日本大震災と福島原発事故。同年7月、放射性物質に汚染された稲わらを食べた牛の肉から、基準値を超える放射性物質が検出されます。相馬市の隣の飯舘村は、全村避難となり、村あげてブランド化した「飯館牛」が存続できなくなりました。相馬地域では高齢化もあり、7人いた肥育農家が3人にまで減りました。
震災直後、鳥久精肉店では地元の肉が全く売れなくなりました。その危機を農家が協力し、生産者の部会費で廃棄されてしまう肉を買いとることで、店の存続を支えました。こうした「二人三脚」は地域レベルで生かされ、鳥久精肉店の客足は次第に戻っていたといいます。
福島県内では、定期的な立ち入り検査などで飼料や牛舎を管理し、さらに出荷する牛については全頭、放射性物質の検査を徹底し、結果を公表しています。

若手が台頭、「グランドスラム」に続け

和田山さん以外にも、県の共励会で優秀賞を多くの農家がとる土地柄。南の南相馬地域では、大規模化を目指す農家もあるといいます。和田山さんは「相馬や南相馬の、地域全体のレベルが上っている」と話します。「相馬牛」ブランドは、これまで相馬市内の牛のA5ランクに限っていましたが、今後は南相馬市の牛にも範囲を広げていくそうです。もちろん、A5ランクの最高牛に限る基準は変わりません。「私より上かなと思う農家も出てきました。お互い競争意識もあり、今後が楽しみです」。「グランドスラム」に匹敵する農家がどんどん出てくる可能性も、夢ではなさそうです。

和田山孝明さん

PROFILE

肉用牛農家

和田山孝明さん

元市役所職員。2005年退職後、本格的に牛を飼う。原発事故後は、生産者団体幹部として対策に奔走。福島を代表する生産者で、2013年度は福島県の4つの共励会全てで最優秀賞を受賞する偉業を達成。鳥久精肉店と協力して「相馬牛ブランド」育成に取り組む。

創業150年の味噌屋、「コラボ」で築く次の100年 南相馬市の北部・鹿島区で、創業150年の味噌屋を営む若松真哉さん。見た目は「普通」の店構えですが、裏の蔵で仕込んだ伝統製法の味噌は一級品です。小高の和田智行さんら「復興ツアー」仲間の輪も広がっています。

「相馬を知って」動画に込めた決意

「相馬を知って」動画に込めた決意 若松さんは、震災がおきた2011年12月CM動画(外部サイト)を公開。その中で「本当の相馬を知ってほしい」とメッセージを送っています。「これは一生の役割だと自覚しています」。
2012年夏に浜松から訪ねてきた母娘が「こんな(ひどい)状態だと思わなかった」と口にしたそうです。それを聞いた若松さんは、南相馬の様子が伝わっていないと感じ、「被災地ツアー」を積極的に受け入れるようになります。
普通の味噌屋は「あの日」から大きく変わりました。

「みそつき」文化と共に戻る住民生活

「みそつき」文化と共に戻る住民生活 南相馬市の海岸部は津波で、福島県内で最大の犠牲者を出しました。若松さんは消防団員として遺体捜索に従事。店のお得意さんの遺体も運んだといいます。
その後約40キロ離れた福島第一原発が爆発し、生後間もない子どもを連れ、宮城県に一時避難します。それでも夏には何とか、震災前年に仕込み、密閉した屋内で寝かせていた味噌の販売を再開できました。放射能検査は3回行い、いずれも「検出せず」でした。
若松さんの味噌の自慢は蚕のように上質な麹。小箱に分けて麹の均一な活性を促す「麹蓋製法」で、手間ひまかけて「味噌の命」と呼ぶ麹を作っています。その麹をふんだんに使い、独自の味を生み出しています。
「みそつき 承ります」
玄関脇にある見慣れない看板。「農家が、作った大豆や米を持ち込みます。原料にして米麹を作り、自宅で食べる味噌を作ります。東北には『みそつき』文化があるんです」と若松さん。店先には持ち込まれた米や大豆が並び、震災後に急減した「みそつき」客が戻りつつあるといいます。普段通りの生活に戻る人が増えている証です。

「コラボが大事」の一言が契機に

「コラボが大事」の一言が契機に 味噌屋の新規顧客は2011、12年がゼロの異常事態でしたが、新たな出会いが生まれたおかげで、13年以降は「震災前より増えた」といいます。小高の和田智行さんや相馬市で水産加工を営む高橋永真さんなど、今までなかった地元交流も増えました。
「次は、風評被害に打ち勝つものを作り出さなければ」と、もんもんと考えていた若松さんは、高橋さんが言った「これからは『合作』が大事」というひと言に触発され、丹波篠山の高級黒大豆をたっぷり使った「異例」の新商品を発売します。父親が震災支援のお礼で訪問した丹波篠山の大豆を仕入れ、大粒な豆を使うため黒皮が残る、甘くて濃厚な伝統味噌と奏でるハーモニー。「田舎価格です(笑)」という値段も魅力です。「恩返し」をきっかけに重なる、離れた2地域の伝統。新設の常磐道サービスエリアやインターネットで販売します。

「1000年の歴史」と歩む

若松さんは、地元商工会や地域全体の商工会青年部のトップに就き、地域の「コラボ」も担っています。「避難で住まいがばらばらになり、会う機会がないので、まずは一同が集まる場を作りたいです」。
若松さんが使い込む前掛けには、家紋入りの旗を持つ騎馬武者が描かれています。神戸から移住したデザイナーが支援したものだそうです。若松さんの味噌蔵はもともと相馬藩の「年貢蔵」で、150年前に手に入れたもの。1000年の歴史を持つ相馬野馬追の騎馬武者行列が、店の前を毎年通ることもあり、前掛けには「相馬と一緒に歩む」思いを込めています。ネット販売、他地域とのコラボ、ツアー案内。30代の若き力が、歴史根付く相馬の「次の伝統」を築き始めています。

若松真哉さん

PROFILE

若松味噌醤油店 店主

若松真哉さん

南相馬市鹿島区で創業150年の味噌醤油店の店主。大震災時3カ月だった長女と家族は一時避難するが、半年後に事業を再開。2011年12月、ヤフーが運営する「復興デパートメント」立ち上げ時から、ネット販売も開始した。「被災地ツアー」の受け入れも行う。

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